こんにちは。ぬくもり絵本時間、運営者の「あかり」です。
世界中で愛されている名作絵本ですが、大人になってから読み返すと内容にひっかかりを覚える方が多いようですね。
にじいろのさかな 批判という言葉で検索される背景には、物語の展開がおかしいと感じる心理や、うろこを分ける描写そのものが気持ち悪いという生理的な反応があるのかもしれません。
また、うろこを要求する周囲の魚たちが傲慢に見えたり、その平等の描き方が一部で共産主義を連想させたりと、読者の視点は非常に多岐にわたります。
結局のところ、にじいろのさかなの作者の意図はどこにあるのか、読み聞かせをするパパやママなら一度は気になったことがあるのではないでしょうか。
この記事を読むことで、作品に対するモヤモヤした気持ちがすっきりと整理され、新しい視点を持って親子で絵本を楽しめるようになりますよ。
- 大人が抱く物語の展開に対する具体的な違和感の正体
- 気持ち悪いと感じる描写や傲慢に見える魚たちの振る舞い
- 共産主義や同調圧力といった大人の視点による深い考察
- 作者が本来伝えたかった分かち合いの精神と作品の魅力
にじいろのさかなの批判から考える物語の違和感

きらきら輝く美しい鱗を持つ主人公が、孤独を経て幸せを見つける物語ですが、その過程に疑問を持つ声は少なくありません。
多くの読者が指摘するのは、美しい個性を手放すことが幸せの条件となっているプロットの危うさです。
にじいろのさかながおかしいと言われる教育的背景
道徳の教材としても使われることのある作品ですが、一部の保護者からは教育的な観点でおかしいという指摘があります。
最も議論されるのは、友達を作るために自分の大切な持ち物を分け与えるという解決策が、一種の買収行為に見えてしまう点です。
子供に対して「物をあげないと仲間に入れてもらえない」という極端なメッセージとして伝わることを危惧する意見もありますね。
もちろん、幼少期に「貸して」「いいよ」を学ぶステップとしては理解できますが、自分の身を削る描写には慎重な意見が目立ちます。
対等な友人関係は、物のやり取りではなく、互いの内面への理解や信頼によって築かれるべきだという価値観が批判の根底にあります。
にじいろのさかなの描写に抱く気持ち悪いという違和感
視覚的な美しさを評価する声がある一方で、設定をリアルに想像したときに「気持ち悪い」と感じてしまう層も一定数存在します。
魚にとって鱗は皮膚の一部であり、それを剥がして他人に手渡すという行為が生々しく、生理的な嫌悪感を抱かせてしまうのです。
特に、にじうおの周りに他の魚が群がり、次々と鱗をねだるシーンは、「集団で一人の身体を貪っている」ような不気味さを演出してしまっているのかもしれません。
絵が美しいだけに、その行為の残酷さが際立って見えてしまうのも、大人が違和感を持つ理由の一つと言えそうです。
にじいろのさかなに登場する魚たちの傲慢な振る舞い
にじうお本人の態度もさることながら、周囲にいる小さな魚たちの言動が傲慢に感じられるという批判も多いです。
他人が持っている特別なものを欲しがり、断られた瞬間に集団で無視を始めるという構図は、現代では「たかり」や「いじめ」と紙一重です。
にじうおが最初に自慢げに振る舞った非があるとはいえ、だからといって鱗を奪う権利が正当化されるわけではありません。
「くれないなら遊んであげない」という態度は、良好なコミュニケーションとは言い難く、ここに納得がいかない読者が多いのも頷けます。
にじいろのさかながおかしいと言われる道徳的理由
物語の結末がハッピーエンドとして描かれていることに対し、道徳的な不整合を感じる声もあります。
個性を捨てて周囲と同じになることでしか孤独から抜け出せないという結末は、同調圧力を肯定しているように受け取られかねません。
自分らしくあることよりも、集団に溶け込むことを優先させる教育観は、多様性が重んじられる現代において「おかしい」と判断される要因になっています。
誰一人として「にじうおのそのままの美しさ」を認めず、奪うことでしか満足しなかった周囲の姿勢に、道徳的な課題を感じる人は多いようです。
個性を捨てる結末がおかしいとされる批判の根拠
この物語が批判される核心は、にじうおが持つ「きらきら光る鱗」という唯一無二の個性を、最終的にほとんど失ってしまう点にあります。
優れた才能や美しさを周囲に配分し、平均化されることで初めて平和が訪れるという流れは、個性の抹殺を推奨しているように見えます。
「出る杭は打たれる」という言葉を象徴するかのような展開に、拒否反応を示す大人は少なくありません。
自分の個性を守りながら、他者と共存する道はなかったのかという問いが、多くの批判の根拠となっているのでしょう。
にじいろのさかなの批判を深く読み解く作者の意図

批判の内容を精査したところで、今度は逆の視点から、この物語がなぜこれほど長く読み継がれているのかを考えてみたいと思います。
作者が作品に込めた真意を知ることで、表面的な批判を超えた深いメッセージが見えてくるかもしれません。
にじいろのさかなと共産主義の関連性を問う考察
ネット上の考察でよく見かけるのが、この物語は「富の再分配」を説く共産主義的な思想に基づいているのではないかという意見です。
持てる者が持たざる者に分け与え、全員が平等な状態を目指すという構造が、政治的なメタファーとして解釈されることがあります。
しかし、子供向けの絵本にそこまで政治的な意図が込められていると断定するのは、少し大人の深読みが過ぎるかもしれません。
むしろ、もっとシンプルに「独り占めすることの寂しさ」を説いていると捉えるのが自然でしょう。
にじいろのさかなに込めた作者の意図と本来のテーマ
作者のマーカス・フィスター氏は、この物語を通じて「分かち合いの喜び」を伝えたかったと各所で述べています。
自分の価値を一人で噛み締めるよりも、誰かを喜ばせるために使うことで、自分自身の心も豊かになるという精神的な充足を描いています。
(出典:Marcus Pfister Official Website “The Rainbow Fish”)
鱗は単なる物質ではなく、にじうおの内にあった「プライド」や「エゴ」の象徴とも言えます。
それを手放すというプロセスは、彼が孤独な王様から、社会の一員へと脱皮したことを表しているのですね。
にじいろのさかなの傲慢さが解消される結末の解釈
冒頭のにじうおは、他の魚たちを無視し、自分の美しさにだけ没入している非常に傲慢な存在でした。
物語の最後で見せるにじうおの姿は、執着していた美しさを手放すことで、他者と対等に笑い合える自由を手に入れた状態です。
批判されがちな結末ですが、実は「自分を縛っていたこだわり」から解放される瞬間の清々しさを描いているとも取れます。
傲慢だった主人公が、他者の存在を認め、受け入れるようになる成長物語として読むと、また違った印象になりますね。
にじいろのさかなの結末に見る作者の意図と幸福感
幸せの定義は人それぞれですが、作者が描こうとしたのは、他者との関係性の中で育まれる幸福感です。
鱗を配り終えた後ににじうおが感じたのは、欠乏感ではなく、誰かの世界を輝かせたという「貢献」による深い満足感でした。
奪い合うのではなく、自ら差し出すことでコミュニティが温かくなり、自分もその恩恵に預かるというサイクル。
この優しい循環の始まりを、鱗を分けるという分かりやすいアクションで表現したかったのではないでしょうか。
にじいろのさかながおかしいという批判を越える魅力
批判の声があっても、子供たちがこの絵本に強く惹きつけられるのには、抗いがたい魅力があるからです。
何よりもホログラムを用いた鱗の輝きは、子供の純粋な好奇心を刺激し、物語の世界へ一瞬で引き込む力を持っています。
物語の論理性を超えた、圧倒的な「美」への感動が、子供たちの心に深く刻まれるのです。
そして、最後にはみんなで幸せになるという安心感のあるストーリーも、低年齢層の読者には大切な要素ですね。
絵本は正しい道徳を教えるためだけの道具ではなく、美しいものに触れ、心が動く体験そのものに価値があると言えます。
にじいろのさかなの批判を深く理解し対話するまとめ
にじいろのさかな 批判という視点から作品を読み解いてきましたが、いかがでしたでしょうか。
大人が感じる違和感や批判は、それだけ私たちが現代社会において「個人の権利」や「対等な関係」を大切に考えている証拠でもあります。
親子でこの絵本を読むときは、物語をそのまま受け入れるだけでなく、ぜひ「どう思う?」と話し合ってみてください。
「鱗を欲しがるのは少し強引じゃないかな?」「にじうおが分かち合えたのは良かったね」と、多様な解釈を認めるきっかけにできれば、これほど豊かな読書体験はありません。
| 批判のポイント | 親子で話したいテーマ |
|---|---|
| 友達を物で買っている | 本当の友達になるには何が必要? |
| 個性を捨てるのはおかしい | 自分らしさを大切にしながら仲良くするには? |
| 周りの魚たちが傲慢 | 自分が欲しいものを他人が持っていたらどうする? |
作品を批判的に捉えることも、肯定的に楽しむことも、どちらも間違った反応ではありません。
大切なのは、一冊の絵本を通じて、自分たちの価値観を確かめ合い、対話を深めていくことだと私は思います。
正確な教育方針や具体的な指導案については、学校や専門家によっても見解が分かれるため、最終的な判断は各ご家庭の価値観を大切にしてくださいね。

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